非常に不愉快だった。
先週の日曜17:00ごろ、新宿のヨドバシカメラ付近で
新宿中央公園でのゲートボールからの帰りと思われる団塊の列に遭遇した、
奴らは駅の方向にダラダラと列を伸ばして歩いてた。
奴らが通り過ぎるまで、数人が道をよこぎることができず難儀をしてた。
これこそが団塊なんだよ。
堺屋太一の原義でも、団塊は「同質のものの塊」としての性質を持つ世代として
団塊の世代を定義している。
ゲートボールの同じ世代の男性、ほぼ同じ格好をしてて、多分社会階級も同等。
それが、自己組織的に、誰がリーダーになるでもなく、鳥の様にサバの様に群れをなして、何の考えもなく進んで地形を変えてゆく。
そこにたまたま水が流れたから、地面が削れて川になるようにルールが出来て、逆らえなくなる。団塊の作るシステムはすべてそれだ。合理性どころか、伝統も、模範も、原型も、配慮も、理性も、美学もない。
彼らのやることに交渉の余地はない。全て自動だから。誰も何も決めてないから。
そして、あの同質のものが大量にあるからと言うだけで、彼らが配慮の中心になり、我々が道を譲ることになり、便宜を計ることになる。
しかも、自動的であるがゆえに、彼ら自信は何も気づいてない。
「赤信号皆で渡れば怖くない」どころか「皆で渡ってる今こそ青」なのだ。
彼らに少しでも多様性があれば、ソレ以外の我々に居心地の良い世の中。もっと言えば彼らにとっても少しはマシな世の中になっただろうに。
むしろ「大数の理論」が「カスケードフィルター」として働いて、急峻な居心地の悪い世の中になる。
これこそが、俺たちの世代が団塊を嫌う根本の理由だ。
最近は、出会うことも少なくなったけど、昔はこの現象に都々であったもんだった。
いま制度劣化したその轍にくるしめられてるわけだが。
今でも彼らがうがった川の跡に迷惑をかけられ続けてる。
たとえば、30人学級が実現する前に都会の小学校を潰すのがいい例だと思う。