散歩師・漫画居士のくだらなクラブ日記

ども、散歩師・漫画居士っす。散歩したり実働模型作ったりが趣味なんで、その時に思いついたこととか書くッス

自分の恐怖は克服できても、他人の恐怖は克服できない

■自分の恐怖

 突然ですが、私は、自分がいるときに、自分の家に鍵をかけたりしません。

脳卒中で倒れた時、かろうじて携帯で119番がかけられたのに、ドアを破るのに手遅れになったらバカバカしいからです。

ヒトの気配があるのに忍び込む間抜けな泥棒と鉢合わせする確率よりも、ずーっと高いと思うからです。

さらに、自分がいるのに部屋の鍵をかけるのは、臆病な証拠なので、それを確かめる意味もあります。

 マイケル・ムーアーの「ボーリングフォーコロンバイン」で、アメリカ人は弱虫だからベッドに銃をもってて、いざという時自分の足を撃つ。そもそもカナダ人は、家に鍵をかけたりしない。って言葉に反応したのもあります。

(あれ?蒲田時代から鍵してなかったな?因果関係がおかしい。)

 ともかく、自分の恐怖は割り切りで克服が可能です。どんな問題でも最後は割り切り以外の解決法はないわけですから。

 

■他人の恐怖

 でも、実家の母親は、絶対鍵をかけます。母親の方がずっと倒れる方がずっとマズイと説明しても、泥棒は人のいる家を何より嫌がると説明しても、聞く耳を持ちません。泥棒への恐怖にかられてるんですね。

アメリカみたいに拳銃が簡単に買えたら、多分銃も買うでしょうね。

ボクは脳卒中の他に、母が自分の足を撃つのも心配しなきゃならんのか。

 

■恐怖の巷、日本

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【映画】バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)のポスター、日本だけダサすぎる件 | コレスゴ!

 翻って、2/27頃に話題になった、日本版だけダサイ映画ポスターです。

宣伝の各部門や、クライアントの悲鳴を真に受けて、端から順番に全部盛り込んだからこうなちゃったんでしょうね。

ダサイなんてポスター作ってる人は一番分かってるでしょうが、自分一人のポスター美術としての評価が落ちさえすれば、みんな少しは救われると思ってやったんでしょう。でなくても、プロの仕事をこなしたんでしょう。

日本版のいらない要素すべてが、クレームへの恐怖や売上不信への恐怖で、各部門から降ってくるの悲鳴で出来てるのがアリアリします。

有名人が「白黒だと期待してたのにカラーだった。深く傷ついてPTSDになったので集団訴訟で100億円要求する!不買運動を続ける!」ってクレーム付けてきたらどうする?とかそういうやつ。

 

あなたも、仕事とかで経験あるでしょ?

相手の恐怖から来るトンチンカンなクレームに折れて、適当且つおまじないみたいなオプションを山盛り追加したこと。(しかも、大概本質的なモノよりもコストが掛かる)

 

■ 他人の恐怖と付き合うと

1.他人の恐怖は理解できない

2.恐怖を止めることはできない

  説得で恐怖を止めることは不可能どころか、まず逆効果。

 最終的には、哀れという形で、相手の恐怖を受け入れる事になります。

3. 他人の恐怖は、増幅されて伝わる

 他人の恐怖は理解できないため、大げさ方向に想像してしまうし、

 第三者に伝わる時には、単純化/想像による先鋭化・増幅されて伝わります。

 さらに、疲れや、意思疎通不可能性による自分の不満も恐怖として追加されます。

4.他人の恐怖を止めるために、総力戦絨毯爆撃を始める。

  他人の恐怖は理解できないし、本質的に原因を潰すこともデキないため、

 意味のある対応が不可能。

  大概の恐怖は、時が過ぎ去る以外に解決の方法がないので、締め切りまで最大限努力で、関係ないトコを含めて周囲全体を焦土的に破壊し尽すことに。

 

■恐怖への対応は日本流の根源でもある

 この対応、実に日本的ですよね。日本の生産性や創造力の殆どは、この「他人の恐怖への対応」に消費されちゃってるんじゃないかと。ゴミひとつない日本の町並みや、日本のサービス業の無駄丁寧さなんかは、殆どこれで説明つく気がします。

玉砕の精神構造もこんな感じなんでしょう。

 僕自身は、かなり自分の恐怖に勝てる方だと思ってたんですが、他人の恐怖を克服するのは難しい様です。自分のことなら「いいじゃん別に」で済ませられるんですが。昔は、アホで必要な抜け駆けできないから、日本人は間抜けなんだ。と思ってましたが、多分他の人は、ボク以上に「他人の恐怖」に支配されてるんじゃないかと。

 

 2000年代の起業ブームの頃は、この「他人の恐怖を無視出来る人」がもてはやされてた気がします、ホリエモンとかジョブズとか。実際にこのタイプの人が上手く立ちまわってた気がしますが、今はどうなんですかね?

 今はコンプライアンスとか言って、さらにクライアント側から「他人の恐怖に対応せよ!」ってねじ込まれてる気がします。

 それ以前に、去年くらいから他人の恐怖以外には、金が落なくなった気がしてます。

最近は、50mくらいの道路工事にもトランシーバーもった警備員が4人も張り付いてたり。

 

■恐怖ドライブ型社会

 ボクは、この「他人の恐怖への感受性」は人間の本能なので、社会が過密になって複雑になると、全ての社会が、日本型の恐怖ドライブ社会になるんじゃないかなぁと感じてます。

 今は日本以外のアメリカも中共も社会/会社は有限要素法モデルの様に、直接の上司や部下など隣の必要最低限の相手だけと対話し、の間にはっきりとした業務分担がある社会/会社ですが、

これから世の中が複雑になると、もっとタスクフォース的(jobごとに組織が再編されて、自分でも把握できないほど役割を持つスタイル)にならざるをえないんじゃないかと。知らない人とも根回し会話が済んでることにされちゃう。

さらに、全ての従業員になんでも要求するトヨタ型の超多機能工型が当たり前になるんじゃないかと。(じっさいボクは今の仕事では、やったこと無い仕事ができることとして配置されてますよ。仕事ごとに違うスキルを要求されます。ええ。日本じゃそれは当たり前だもんね。)

 そうなると、自分で把握できないほど関係の矢印で縛られるようになり、人間の本来の感情/本能である「他人の恐怖による支配」がドライブする社会になるんじゃないかと。

 日本は、この件では先進国なのです。