■野良男と賢し女
野良男(のらお)と賢し女(さかしめ)構造というのがある。
古来、物語のスタイルで、「因習にとらわれて進退の極まった共同体を、遠方から現れたバイオレーター(違反者)が新奇なテクニックを駆使して救う」という筋立てのものをいう。因習に囚われた古い共同体を賢し女、遠方から現れたバイオレーター(違反者)を野良男という。
因習では正しいことをするものの意味で「賢しい」といい、どこの馬の骨とも分からないから「野良」というのだろう。
この構造は神話の代から世界中にあり、日本の神話では、須佐之男と櫛名田姫の物語がそれにあたる。闘将ダイモスの「一也とエリカ」も当然その末裔だろう。スヌーピーの「マーシーとペパーミントパティ」、セーラームーンの「亜美とまこと」、まり見ての「翔子と裕美」など、定番のユリカップルや、初期富野作品の「アムロとララァ」「コスモとキッチン」「カミーユとフォオ」も男女が逆ではあるが、ある種の「野良男賢し女構造」なんだろうと思う。
■英雄とはバイオレーターである
岩月謙司的な物言いだが、女は生物的に女であれば女だが、男は努力やイニシエーションそして英雄体験を必要とする「ジェンダー(社会的性的役割)」だ。現在との延長線上にない、ジャンプあるいはリープした活躍が求められる。
当たり前の話だが、現在の延長線上にない活躍は、現在のルールに則ってはありえない。現在のルールの試行での最適解はすでに見つかっているか予想がついているからだ。なにしろ行き詰ってる煮詰まっているんだから。
野良男、つまり稀人(まれびと)が、因習を超えた、想像を超えた行いをするからこそ、英雄的行為になる。たまたまルールに乗っかってるとしても、因習としては外れてる。因習から外れているから、常に英雄はバイオレーター(違反者)である。
■「男の仕事は約束を破ることだけである」
男になるには、群れから離れた離れ猿の時期に方々の見識やテクニックを得て、どこかの共同体(あるいは賢し女)を救う英雄的行為の経験が必要である。(ジェンダーとして、あるいは神話としてである。実際の性別は別に男女どっちでもいいが、なぜか男が担うことが多い)。
想像されるほど大それた経験でなくていい。ただ「新奇であるがために勇気の必要な決断をし、それが他人を助けさえすればいい」
しかし、それが先ほど来言うように、かならずや因習に対する約束を破ることになる。
だから、極論すれば
「男の仕事は約束を破ることだけである」
のである。
なんつうか、聖悠紀いいな。くるくるパックス読みたくなった